« 優しい平家の嫡流「平三位中将維盛」 | トップページ | 運命を受け入れた人「平新中納言知盛」 »

愛された悲劇の人「平本三位中将重衡」

平重衡は平清盛の五男で、兄知盛と並んで勇将としてしられる。重衡が特に清盛の子の中でも有名なのは、重衡が南都を焼き討ちにした張本人とされるからである。重衡の戦歴は輝かしい。重衡が参陣する合戦ではほとんど平家は負け知らずである。言うなれば不敗の将軍であった。南都出兵に際しても、奈良坂・般若寺の僧兵を打ち破り、南都を制圧した。折から、年末で、南都は寒く、暗い。そこで、誰かが民家に火をかけるように命じた。それが重衡であったかどうかわからない。しかし、運悪く放った火は風にあおられ、藤原の氏寺興福寺、国家鎮護の東大寺、さらには庶民の逃げ込んでいた大仏殿までも紅蓮の炎の包まれ、焼失した。この南都焼き討ちは平家の悪行の最たるものとして紹介され、火をかけた際の大将軍重衡は大悪人とされ、後僧兵によって殺される。また、重衡の罪をかぶるように、清盛はあっち死にを遂げる。だが、大事なことは、重衡らは南都を焼こうとして火を放ったのではない。また、南都に対しては、平家は最後まで、紳士的に平和的に話し合いを望んでいた。妹尾兼康を派遣して、和議を申し込むも、南都はこれに挑発的な行為で応じ、清盛に決戦を挑んだ。当初から、南都は平家と対立、以仁王の挙兵に際しても、反平家の立場をとっていた。こう考えると、焼き討ちは不慮の事故ではあるが、南都は自ら破滅を招いたともいえ、重衡の罪は重くない。南都焼き討ち後、清盛が死に、平家は都落ちをする。不敗の武将重衡にすれば、さぞ悔しい思いをしたであろう。そして、この重衡の最初の負け戦が、一の谷合戦であり、重衡にとっては最後の戦となる。この一の谷の合戦では、義経の鵯越により、平家は総崩れとなり、平家の名だたる公達が討たれる。その中で、唯一人生け捕りになったものがいた。平重衡その人である。生きて虜囚の辱めを受けることはこの当時の武士にとっても同じである。特に重衡は清盛の子、生け捕りになることがいかに辛いことかは推測がつく。重衡の乳母子が重衡の馬が射られるのを見て、自分の馬が重衡にとられると思い、重衡の前から姿を消した。重衡には自分の前で起こった状況が飲み込めず、乳母子に裏切られたことで唯我を失い、呆然としていて、自害の機会を逸してしまったのだろう。須磨寺近くにある今でも重衡捕われ松の跡がある。捕われた重衡はさすが清盛の子、都に聞こえた貴公子、文武に秀でたその風格は、鎌倉武士を圧倒していた。鎌倉で源頼朝と対面することにもなるが、頼朝もまた、重衡を見て、圧倒され、捕虜としてではなく、賓客を扱うように重衡と接するようになる。側には、千手という身の回りの世話をするものも置くほどの気の使いようである。重衡は平曲「海道下」「千手」でも、人物の素晴らしさが伝わってきて、最期は南都の僧兵に引き渡されるわけだが、その別れや死を惜しまぬものはなかったというし、冷血な頼朝でさえ、同情を禁じえなっかたであろう。同行の武士たちに京都の日野で愛する妻と今生の別れを許されたり、千手が最後までお供をしたり、重衡には人をひきつける人間的な魅力が多分に備わっていたのであろう。そんな重衡も結局最期には南都炎上の罪を一身に受け、平家の罪業を一身に受けるように従容として、木津川のほとりで、首をはねられることとなった。 平家の公達の中でも、文武に優れ、風格と威厳に満ちた重衡は、誰にでも愛される人一倍心優しい公達だったのでしょう。

|

« 優しい平家の嫡流「平三位中将維盛」 | トップページ | 運命を受け入れた人「平新中納言知盛」 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 愛された悲劇の人「平本三位中将重衡」:

« 優しい平家の嫡流「平三位中将維盛」 | トップページ | 運命を受け入れた人「平新中納言知盛」 »