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和歌の名手「平薩摩守忠度」

平忠度は平忠盛の末子で、平清盛の末弟である。通称は薩摩守で、能や狂言でも有名な人物である。能では、和歌の名手としての忠度が、狂言では、船の無賃乗車のただ乗りと薩摩守忠度をかけている。平忠度は、清盛、経盛などの兄弟とは違い、京都ではなく、熊野で育った。父、母の影響であろうか、文武両道に優れた忠度は、平家一門の中で特に優れた人物のように感じる。平家物語の中で、忠度が出てくる有名な話は、忠度都落と、忠度最期であろう。文武の将忠度が最も愛したもの、それは和歌であった。平家全盛のころから、藤原俊成に師事し、多くの和歌を詠むようになった。しかし、平家の力が弱まると、各地の反乱を鎮めるために、忠度は多くの遠征に赴くことになる。そんな中でも、忠度は和歌を忘れてはいなかった。平家一門の都落ちの時、忠度は俊成の屋敷に赴き、自分の和歌に対する思い、いつか世が平和になったときには勅撰集が作られるであろうから、自分の歌を一首でもいいからいれて欲しいと俊成に伝え、西海へと落ちていった。その去り際には、和漢朗詠集の詞を詠みながら去っていくなど、風流を愛する人物であることがうかがえる。そして、平家一門が滅亡し、千載集の沙汰が出た時、俊成は忠度のことを昨日のことのように思い出し、忠度の和歌は優秀で多くの和歌を載せたいと思うが、勅勘の人であったので、読み人知らずの形で、一首だけ入れることにした。「さざなみや 志賀の都は あれにしを 昔ながらの 山桜かな」忠度の思いと俊成の思いの入ったこの歌は言葉以上の意味を持つような気がします。平家都落ちの有名なエピソードは忠度都落ち、経正都落ち、維盛都落ちなどがあるが、忠度都落ちが文章も一番美しく、琵琶でも、涙を誘う美しくきれいな物語であろう。文武の名将忠度も、最期の時を迎える。一の谷の戦いである。源氏の騙まし討ちによる奇襲で、平家軍は不意を討たれ、惨敗しました。この戦いでは、平敦盛、平知章など多くの平家一門が討ち死にを遂げました。平清盛の五男重衡も生け捕りにされました。忠度は歴戦の武者でありましたが、敗戦を悟り、撤退の最中に、お歯黒にしていることから平家の大将とばれてしまい、熊野育ちの大力の忠度も、奮戦空しく、右手を切られ、堪忍し、念仏を唱えている最中に殺されてしまいました。討ち取った武将が首を取り、首を包もうとしたとき、一首の歌が書かれた紙を見つけました。「ゆきくれて 木の下かげを 宿とせば 花や今宵の 主ならまし」死に行く時も和歌を詠んでいった真の文武の将平薩摩守忠度の死は、敵、味方の関係なく、多くの人の涙を誘った。現在の我々は本当の意味での文武両道とか、武士道というものを軽んじてはいないだろうか。敵にも惜しまれる人物になること、敵でも良い所があればそれに敬意を払う心をもつことなど、文武の道に生きた平忠度から我々が学ぶものは多いのではないだろうか。

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